SNS上でアカペラが語られるときに見られる「内輪」という言葉には、しばしば否定的なニュアンスが込められる。例えば「アカペラはしょせん内輪の盛り上がりでしかない」「アカペラ界で活躍したとしても、音楽全体から見ればちっぽけ」といった具合だ。
人類が育んできたあらゆる文化は人種、国家、地域、宗教、言語などの共通事項を前提としている。つまり、文化は本質的に「内輪」の状態にのみ成立する。にもかかわらずアカペラに「内輪問題」がときどき勃発するのはなぜだろうか。そんな素朴な問いが、この文章の出発点である。
筆者個人の考えを先に述べておこう。私は「アカペラは内輪でよい」と思っている。和気あいあいと仲間内で楽しんでいる状態の何が悪いというのか。一方で、内輪状態から脱してアカペラの素晴らしさを外部の人々に伝えたいという気持ちもよく分かる。
「アカペラは内輪でよい。けれどもみんなに知ってほしい」……そんなアンビバレントな感情こそが、ひょっとしたら、アカペラで内輪問題が語られる理由の本質なのではないかと考えている。
この文章は「内輪であることをよしとしながら、外界とつながるためにはどうしたらよいか」について考える論考である。仮説に仮説を重ねた放談に近いが、それなりに価値のある結論を示せたと思っている。
なお本論考における「アカペラ」とは、いわゆる「コンテンポラリーアカペラ」(リードボーカル+複数人のコーラス+ボーカルベース+ボイパ)と想定して議論を進めていく。
アカペラは内輪を強化する
そもそもアカペラはほかの音楽表現と比べ、「内に閉じこもっている文化」なのだろうか。これについてなんらかの結論を導くのは難しいが、少なくとも、アカペラという音楽手法に、内輪を強化する性質が備わっていると筆者は考えている。
アカペラの最も大きな特徴は、とりもなおさず、いつでもどこでも演奏できることだ。楽器はいらず身体さえあればよい。必要なのは、演奏曲を事前に記憶する作業だけ。曲のリズム、メロディ、歌詞を記憶して再現できる準備を各々がしておけば、音楽を作ることができる。この一連の作業を「演奏曲の共有」と呼びたい。
「演奏曲の共有」は、初対面の人間どうしによる突発的なグループ編成を可能にする。アカペラライブの打ち上げで、トライトーンの『しあわせもあこがれも』やゴスペラーズの『ひとり』といった楽曲を、出会ったばかりの相手と即興でハモりだすアカペラーの姿を見たことがある読者は多いだろう。そのうち参加者全員を巻き込んだ大合唱へと発展するのである。そこには、まごうことなき「内輪の光景」が存在する。
「演奏曲の共有」はアカペラ演奏における不可欠な条件である。そしてその条件こそが「内輪の強化」に影響していると考えるのだ。
さて、このように書いたときに予測できるのが「ほかの音楽文化でも同じことが言えるのではないか」という反論である。この反論に対する明確な回答を示すことは難しい。そこで、ここでは、プレイヤーの多い二つの音楽形態―「弦楽器を基調とするバンド演奏」と「管楽器を基調とするクラシック音楽」にのみ絞ってアカペラと比較し、「回答らしきもの」を提示したいと思う。
まずは「弦楽器を基調とするバンド演奏」についてである。和音の即時生成を特徴とする弦楽器をつかえば、コード進行の共有をすることで即興のセッションがある程度可能だ。「演奏曲の共有」は必要不可欠な条件ではない。
つぎに「管楽器を基調とするクラシック音楽」については、アカペラと同じように「演奏曲の共有」が必要であることが多い。しかしクラシック音楽が培ってきた歴史は数百年単位であり、獲得してきた普遍性は世界規模である。アカペラと比較するにはあまりに規模感が異なる。
やや強引な整理であるが、2020年現在におけるコンテンポラリーアカペラの規模感を前提とした上で改めて、アカペラにおいて「演奏曲の共有」は必須であり、それこそが内輪を強化するという仮説を打ち出したいと思う。
排除の力学は否定しなければならない
繰り返すが、筆者は内輪を否定する立場ではない。ただし、内輪な状態でしばしばみられる「排除の力学」は、否定しなければならないと思っている。
前記したように「アカペラ曲を飲み会で合唱する」という状況が常態化したときに生まれるのが、他者に対して向けられる「アカペラ曲を知っているかどうか」という目線だ。つまり、「この人と今すぐに『しあわせもあこがれも』をハモれるかどうか」が、他者への評価基準になりうるのだ。そこには、排除の力学がある。
具体的な例を出そう。分かりやすいのは前記したライブの打ち上げでの光景である。アカペラ曲を知っていればいるほど「アカペラ界の有名な人」と楽しく話すことができ、ときにはその場でハーモニーを重ねることすら可能だ。その状況が生み出すのは、「アカペラ曲をもっと知りたい」という欲求、もしくは「アカペラ曲を知っておかなければならない」という強迫観念である。そうなるといよいよベクトルは内側に向かい、コミュニティはより強固になっていく。
そして同時に生まれるのが、「自分はアカペラ曲をよく知らないから、ここにはいられない」という思いを持つ人であり、コミュニティから去ってしまう人だ。私たちはこのような人が生まれる状況(=「排除の力学」)を、無くしていかなければならない。
アカペラに内輪はあっていい。しかしアカペラがほかのさまざまな文化と交流する機会を失わないために、「排除の力学」はあってはならない。では、その排除の力学は、どうすれば無効化できるのか。鍵となるのが、ボイスパーカッションの存在である。
コミュニティを渡り歩くボイパ
日本におけるコンテンポラリーアカペラ普及における最大の功労者のひとりが、元RAG FAIR(※1)の「おっくん」こと奥村政佳である。かれは筑波大学在学当時、さまざまな大学サークルを渡り歩いて「横のつながり」を生み出していった。かつて当サイトが行ったインタビューで、奥村は下記のように語っている。
当時、「アカペラを広めたい」と強烈に思い、行動に移した。それによってアカペラをひとつの文化にすることができたという自負があります。「JAM」(Japan Acappella Movement、※2)というアカペライベントを作ろうとしたときは、すべての大学アカペラサークルのライブに行って、飲み会には朝まで参加して、代表を口説いていった。
(中略)「アカペラをいろんな人に聴いてほしい」という一心で、JAMをつくった。その結果、多くのアカペラーとつながることができ、ぼくのところに様々な情報が集まってくるようになりました。そんな頃にテレビ局から「アカペラをテーマにした企画をやりたい」というお話があったので、いろんなアカペラグループを紹介しました。それが「ハモネプ」(※3)「につながっています。
奥村はなぜさまざまな大学のアカペラー同士をつなぐことができたのか。それはやはりボイパがあったからこそではないか。
「RAG FAIR“RAG & PIECE”」(ソニーマガジンズ)によると、奥村は大学生当時、所属する筑波大学アカペラサークルDoo-Wopをはじめ、早稲田大学アカペラサークルStreet Corner Symphonyや、埼玉大学アカペラサークルCHOCOLETZなど当時のアカペラシーンをけん引していたサークルを渡り歩き、一時は10以上グループに同時加入していたという。
なぜそのような状況可能にしていたのか。やはりほかのパートには見られないボイパの特性に根ざしているのではないかと考える。すなわち暗譜の容易さ、曲を知らなくても合わせられる柔軟性の高さなどだ。
「アカペラ」という枠にとらわれることなく、楽器との交流を積極的に行っているプロボイスパーカッション奏者の小野アヤトもまた、関西大学アカペラサークルBrooklyn304に在籍していた当時のことを振り返りながら当サイトのインタビューで下記のように語ってくれている。
どこに行っても、ボイパはほんとうに重用されました。そしていつからか「これは交流にうってつけの技術じゃないか」と気づきはじめた。曲を知らなくても混ざれてしまうのです。ほかのパートだったらそうはいかない。いちばん社交力が発揮されるパートなんじゃないかと思いました。
内側に向かいがちなアカペラ文化において、外側との交流のためにボイパパートが果たしてきた役割は大きいことがよく分かる。
さて、こうした論を展開したときに私たちが気をつけなければならないのは、「アカペラ愛好家はボイパを身に着けなければならない」という、内側にベクトルが向いた結論に、ふたたび行き着いてしまうことである。このふたりのボイパ奏者の言葉から学ぶべきなのは、ボイパのすばらしさではない。アカペラという音楽手法のなかから、より開かれた交流の手段を見出していくことの必要性だ。
すでに散発的にみられる新たな手段が、コード進行のみを決めて歌う「アカペラ・セッション」である。そこではこれまで必須とされてきた「演奏曲の共有」は必要ない。
アカペラをなどの楽曲制作を手掛ける音楽家のみやけん氏(@aichil1164)はツイッターで、下記のような実験例を示しているので引用する。
昨日ライブの打ち上げでやった即興アカペラの手順。
— みやけん (@aichil1164) February 10, 2020
①ポイパ:ビートを刻む
↓
②ベース:ビートに合うベースラインを歌う
↓
③コーラス:ベースラインに乗るコード進行をロングトーンで鳴らす(アレンジャーが各パートを指定するとスムーズ)
↓
④ボーカル:その場にあるものや状況を歌詞にして歌う
本論は「内輪であることをよしとしながら、外界とつながるためにはどうしたらよいか」という問いからはじまった。その答えのひとつがボイパの存在であり、また上記のようなアカペラ・セッションへの挑戦である。
アカペラ文化は、動画共有サービスやSNSの普及によって日進月歩を遂げている真っ最中である。おそらく今後、また新たな方法が生まれていくことだろう。そのときに必要なのは、アカペラという形式が潜在的に持っている「内輪の構造」や「排除の力学」を自明視しておくことだ。
そしてこうした自明視は、なによりも、私たちアカペラーが抱きがちな「アンビバレントな感情」から、私たち自身を解き放つために、不可欠な心持ちなのではないかと考えている。
※1…日本の男声アカペラ・ヴォーカルグループ。1999年に関東の複数のアカペラサークルのメンバーにより結成。2002年 6月にリリースした2ndシングル「恋のマイレージ」と3rdシングル「Sheサイドストーリー」をがオリコン週間シングルチャート初登場1位と2位を独占。同年末にNHK「紅白歌合戦」に出演している。
※2…1999年に初開催し2019年まで毎年行われている、日本でもっとも知名度の高いアカペライベント。審査を突破した限られたグループにのみ出場権が与えられ、全国の多くのアカペラプレイヤーが出演を目指している。
※3…お笑いトリオ・ネプチューン(名倉潤、原田泰造、堀内健)がメイン司会を務めたフジテレビ番組「力の限りゴーゴゴー!!」の1コーナー。2001年より開始後人気を得て同番組の高視聴率を牽引した。2019年6月、特別番組として復活予定。詳細は当サイト「ハモネプの物語」参照を