2001年、「ハモネプの物語」とともに国内にボイスパーカッションが定着しつつあるとき、ひとりの男がニューヨークで夢を追っていた。日本におけるヒューマンビートボックスの先駆者、AFRA(アフラ、※1)である。
その歩みについては、札幌国際大学短期大学部・河本洋一教授(※2)の論文「日本におけるヒューマンビートボックスの概念形成」(2019)に詳しい。ビートボックス史、ひいてはボイパ史を理解するにあたりきわめて重要な文章であるため一読を薦めるが(リンクから閲覧可能)、本論を進めるにあたっての大前提となることから、まずはその歩みを簡単に紹介したい。
AFRAは高校2年生のころ、世界で最も著名なビートボクサーのひとり、Rahzel(ラゼール、※3)に影響をうけて、独学でビートボックスをはじめた。2000年にRahzelの前座としてステージデビューを果たし、米国を拠点に本格的な活動を開始する。路地裏を舞台にしたラッパーとのセッションなど、「ストリートカルチャーとしてのヒップホップ」を肌感覚として体感していった。
のちに拠点を日本に戻したAFRAは、2004年に富士ゼロックスのテレビコマーシャルに出演する。1台でなんでもこなすマルチコピー機と、ひとりでさまざまな楽器の役割を果たすビートボクサーの姿を重ね合わせた演出だ(このCMが日本のビートボックス史においていかに重要な役割を果たしたのかについては、本論を進めることによって証明することができるだろう)。
翌2005年には渡米中に知り合った歌手のAI(※4)からの紹介で、フジテレビ「笑っていいとも」のコーナー「テレフォンショッキング」に出演。タモリによる「でたらめ中国語ラップ」とセッションをした。これら一連の活躍により、AFRAの存在とビートボックスの名が日本中に知れわたっていく。
AFRAはその後、日本のヒップホップのみならずミュージックシーンを代表するさまざまなアーティストとの共演を果たした。スチャダラパー、VERBAL、サイプレス上野、AI、ハナレグミ、韻シスト、Chara、曽我部恵一……。その活躍はめざましく、現在なおヒューマンビートボックスのトッププレイヤーとして最前線を走り続けている。
数多くの共演の中でひときわ印象的なのが、Mummy-D(※5)との2009年の楽曲「The Voice,The Noise feat.Mummy-D」(※6)だ。
Mummy-Dとは、言わずと知れた日本を代表するヒップホップグループ「ライムスター」のメンバーである。この曲では、AFRAによるビートに乗せ、Mummy-D自身によるヒップホップの歩みが語られる。
腹の底に備えたオシレーター が吐き出す波形をアンプリファイ
喉は加工施すモジュレーター 口からでりゃみなパンチライン
Uh!それはUltimate究極の楽器さNo limit
まさに「声」と「息」こそがヒップホップになくてはならない要素だと、高らかに宣言するかのようなリリックだ。そしてこれはMummy-D自身の振り返りでありながら、MC(ラップ)とビートボックスとの「共通項」を模索する作業としても捉えることができる。
吸って吐き出す 呼吸すらグルーヴ作り出す
雑音以上音楽未満 俺らがドとレがミとファ?のミュージシャン
でもオトナもコドモもオンナもオトコも
誰もが持つこの声でミュージックするぜもっと自由に
「誰もが持つこの声でミュージックするぜもっと自由に」……この歌詞がまさに現実となる時代が、のちに訪れることとなる。
ここで時間をもういちど2001年へと巻き戻そう。その頃の日本では、「ハモネプ」の放送とともに、初めてのボイスパーカッションブームが巻き起こっていた。しかし当時米国を本拠地として活動していたAFRAは、そのブームの存在を「知らなかった」という(のちに友人から借りたビデオテープによって知る)。
河本教授は論文内で「日本国内でのこのようなブームを知らなかったことが、かえってビートボクサーとしての正当性をAfraに与えることに繋がったと考えられる」(論文では「Afra」表記)と指摘した。また「アメリカで初めて受け入れられた日本人ビートボクサーであり、ストリートカルチャーを由来とするヒューマンビートボックスの正当性を有する存在として、日本におけるヒューマンビートボックスの概念形成の原点に位置づけることができる」(強調は筆者)と結論づけている(※7)。
ここでいう「ヒューマンビートボックスの正当性を有する存在」は、「AFRAのビートボックスはヒップホップの文脈上にある」と言い換えることもできる。どういうことか。
ヒップホップ文化は、長く人種差別を受けていた黒人によるアイデンティティの獲得と、分かちがたく結びついている。都市部で流行していた音楽を決して選ぶことなく、ファンクを好み、さらにそこから自分たちが最も盛り上がる箇所を抽出し、ループさせることで自分たちの音楽を生み出していった。そのループに合わせてB−BOYたちはダンスのテクニックを競い、MCたちは強いメッセージを放った。それらはすべて、ストリートから生まれていった。
AFRAはそんなヒップホップを深く愛した。Rahzelの演奏をテープで録音して何度も聴きながら技術を習得し、路地裏でMCとセッションを繰り返して技術を磨いた。「上を向いて歩こう」から一部を抽出し、ビートに組み込むことによって、自身のルーツ、そしてアイデンティティを表現した。
このように、ヒップホップの文脈上にあるAFRAのスタイルは、のちに多くのビートボクサーを日本に生み出すことにつながる。そのひとりが、2005年から都内クラブを中心に活動を始めたTATSUYA(タツヤ、※8)であった。
親に「そこにいたの」と言われるほど物静かだった少年時代。震えが止まらず、外出もままならないほど巨大に膨らんだ「死」への恐怖と戦っていた高校時代。その青年は、ビートボックスと出会うことで恐怖を乗り越え、天命を知り、のちに日本最大のビートボックス大会を開くこととなる。
TATSUYAがビートボックスとともに歩んできた道のりもまた、アイデンティティの獲得そのものであった。
ぜひこの演奏を聴いてみてほしい。「一般社団法人日本ヒューマンビートボックス協会代表理事」という、一見かたぐるしい肩書とは相容れない、スタイリッシュな演奏がそこにある。
とりわけ中盤で登場する「スラップベース」の模倣は、その名を世界に知らしめた代名詞的な技術だ。TATSUYAはスラップベースの発明について「自分らしさを出せば出すほど認められた。そんな精神性がビートボックスの魅力」と語っている(※9)。
TATSUYAがビートボックスを知ったのは20歳の頃。当時は音楽経験がなく「曲に合わせて手拍子することもままならなかった」という。しかし自分の天命を知ったかれは猛練習を重ね技術を磨き、2009年にドイツ・ベルリンで開催された「World Beatbox Championship」に出演。その後ロンドン、ニューヨークのアポロシアター、シンガポールの日本大使館など世界各地で演奏し、技術を磨いた。
その経験のなかで痛感したのが、世界とつながるためのコミュニティを日本につくる必要性であった。「日本だけ取り残されている」。その危機感から、帰国後すぐに一般社団法人日本ヒューマンビートボックス協会(Japan Beatbox Assosiation=JBA)を立ち上げた。23歳の頃である。
JBAの功績はひとえに、国内最大級のヒューマンビートボックス競技大会「Japan Beatbox Championship」(JBC)を生み出したことであろう。大会は2010年から2019年まで10年間開催され、じつに多くのビートボクサーが出演をめざし、しのぎを削り、技術を磨き、また友情を育んだ。
そしてその10年間で、日本におけるビートボックスの技術は急成長していくこととなる。何より参加者たちはそこで、自身のアイデンティティ(自分らしさ)と徹底的に向き合う機会を得てきた。
10年間の軌跡をつぶさに追う作業は別の機会に預けるとして、私は以下で2019年の年末に開催されたJBCのレポートすることによって、その積み上げてきた歴史の成果について語ろうと思う。
文筆家の長谷川町蔵はヒップホップについて「一定のルールのもとで参加者たちが優劣を競う合うゲームであり、コンペティション」と整理している(※10、11)。まさにJBCは、まさにその言葉を体現するかのような大会である。
10周年の記念大会となった2019年大会は12月28日、神奈川県川崎市の「CLUB CITTA'(クラブチッタ)」で開催された。全国約250人のビートボクサーが予選にエントリーし、突破した16人が戦った。
会場には3〜4歳の少年少女から、70代と思しき年配までがいた。男女比は肌感覚で8対2ほど。女性比率は必ずしも多くはないものの、もっと内輪な空間であると想像していた私にとって、意外な多様性がそこにあった。
大会はトーナメント戦で、60秒のパフォーマンスを互いに繰り出す。往復で2回ずつの演奏を行い、終了後、「会場の歓声の大きさ」と「審査員による判定」によって勝敗を決定していく。判定基準はクリエイティビティ、オリジナリティ、ミュージカリティなど。会場の反応と審査員の判定は驚くほど一致しており、「ビートボックスの勝敗は観客自身が決定している」という印象を観客に与えてくれる。
演奏内容はドラムマシンを模倣したものはもちろん、超低音のベースライン、トランペットやサクソフォン、歌やラップもまざっている。それぞれ趣向を凝らした1分間の演奏は、技術の高さもさることながら、飽きさせないための工夫がなされている。相手のパフォーマンスを即座に模倣し、そこから自分の演奏にシームレスにつなげるような高等技術も散見された。
出演者の対決姿勢は鮮明だ。相手の演奏に対し「うるせえよ」「おまえの演奏は似たようなビートばっかりだな」といったいわゆる「ディス」が繰り出される場面や、同じパターンの演奏であることを指摘する動作(2本指を相手に示す)、他人のパクリであること指摘する動作(BITE)の応酬などきわめて緊張感がある。その緊張感もまた、会場を盛り上げるために欠かすことはできない。
パフォーマンスのなかで印象的だったのは、そのビートボクサー「ならでは」のフレーズが繰り出された瞬間である。「鉄板ネタ」とでも言えよう。ファンの間ではお馴染みとされ、会場は大いに沸く。その瞬間は、勝敗以上の価値があるように思えてならない。なぜなら、すでに述べてきたとおり、ビートボックスはアイデンティティの発露であり、あるいは自己実現であり、多様性を認めるヒップホップ文化の体現であるからだ。
出演者は一触即発とも言えるようなはげしい火花を散らしあっていたにも関わらず、演奏後は互いに抱き合い、拍手を贈り、称え合っていた。かれらの態度はまさにリスペクトという表現こそが適切であろう。
JBCがヒップホップの文脈に位置付けられることは、試合外からも、うかがい知ることができた。
ヒップホップは「DJ」「ブレイクダンス」「MC(ラップ)」「グラフィティ」がその4大要素であると言われているが、JBCではこれらを強く意識する演出がなされていた。
会場ではDJ HIROKING、DJ IKU、DJ BACK4が雰囲気を作り上げ、バトルでは、ほんらい意味するところのMC(Master of Cremonies)として、MC KENSAKUが盛り上げる(現在イメージされる「ラップ」のパフォーマンスも行われた)。会場ではどこからともなくブレイクダンスが始まり、試合前後のステージでもプロのダンスパフォーマンスが披露された。会場の外では、作品が仕上がっていくまでの過程を見せる「プロセス・アート」が行われた。
そのアート作品は、マイクを持つ手が最初に描かれ、のちに中指と人差し指が描き足された。その二本指は、いうまでもなく「ピース」「ヴィクトリー」を表す表現である。完成作品は大会終了後、優勝者とともに撮影された。下がその写真である。
JBC2019決勝大会結果発表!https://t.co/RydeWTxrcK pic.twitter.com/iOI9NsAKJr
— JAPAN_BEATBOX (@JAPAN_BEATBOX) December 29, 2019
このツイートの1枚目で笑顔を見せる若者の名はShimo-Ren(しもれん)。記念すべき10周年記念大会において、ソロバトルの頂点に立ったビートボクサーである。かれが優勝後に壇上で放った一言は、私にとってあまりにも印象的であった。
「アカペラも最近やっていまして…。なんならアカペラの方がいっぱいやってる気もするんですけど。『sinfonia』『New Schooler』というグループで活動していますので、応援してくれたら嬉しい」
Shimo-Renは実際にその翌年、アカペラを舞台として怒涛の快進撃とも言える活躍を見せることになる。その活躍については、将来、別の機会に論じることになるだろう。
私がいま注目したいのは、のちに発売されたJBCのDVDにおいて、かれが舞台裏で語った下記の言葉である。
「ビートボックスとアカペラをくっつける。ビートボックスを『音楽の場』で使えるひとつの楽器として広めていきたい」
この言葉は、いまの時代を端的に象徴している。なぜなら2020年現在のビートボックスは、ヒップホップだけではなく、さまざまな文化と融合しながら、急速にその裾野を拡大する真っ只中にあるからだ。
文化の融合と、裾野の拡大。その状況についての理解を深めるため、私たちは再び「ハモネプ」にスポットライトを照らさなければならない。
前章で述べた通り、ハモネプはボイパの存在を日本中に知らしめる巨大な達成を果たした。当サイトではそれを「革命」と表現した。その革命は、じつはふたりのスタープレイヤーによって達成されたというのが私の見立てだ。
ひとりは「おっくん」こと奥村政佳(※12)であった。そしてもうひとりが、2008年9月放送の第6回大会に、彗星の如く登場したDaichi(※13)である。
Daichiは放送の中で、従来ボイスパーカッションで使われてきたドラムセットに加え、喉ベース、シンセサイザー、クリックロール、クラブスクラッチなど、ビートボックスの文脈で培われていた技術を組み合わせ、さらにかれの代名詞的なわざであるサンバホイッスルを盛り込み、きわめてポップなかたちに構築したフリースタイルを披露した。
そのパフォーマンスはテレビ画面を通し視聴者に衝撃を与えた。まさに2001年に奥村による初披露を彷彿とさせるものであった(そしてどのような運命のいたずらか、Daichiは奥村脱退後のRAG FAIRのボイパサポートを務めることとなる)。
福岡に育ったDaichiは10歳のころ(2001年)、まさに奥村のパフォーマンスに衝撃を受けてボイパを始めた。(※14)。青春期は当時爆発的に普及しつつあったYouTubeをはじめとする動画共有サイトを通して海外のパフォーマンスを学んだ。
幼少期からビアノで培った音楽センスを生かし練習を重ね、地元の友人らとともに「よかろうもん」を結成。ハモネプ出演を果たすこととなる。
そして2009年4月に投稿した「Daichi for Beatbox Battle Wildcard」は、日本のみならず世界中に拡散され、2020年11月現在3000万回を超える再生回数を記録している。
Daichiはその後もビートボックスによる演奏をいくつも投稿。とくに定評のある多重録音では、「あまちゃんのテーマ」などを演奏し、テレビ番組でも多く取り上げられた。現在のYouTubeにおいて、トレンドを再構築して披露するパフォーマンスはひとつの「定形」であるが、その先駆だったといえる。
現在はハモネプ出演したグループ「よかろうもん」として、さまざまなアーティストとのコラボをしながら、アカペラ演奏の発信を継続。まさにビートボックスをひとつの楽器として活用しながら、ジャンルレスなエンターテインメントを生み出し続けている。
改めていうまでもなく、現代は、さまざまな文化から要素のみが抽出され、混ぜ合わせることによって新たな価値が生み出されていくハイブリッドな時代である。ジャンルの分類や整理がきわめて困難となり、さらに分類の強引さ「そのもの」を忌避する価値観もまた、急速に広がりつつある。
日本において一般的に、ビートボックスとボイスパーカッションは「ボイパ」という言葉で混同して認識されることは多いが、それはジャンル分類に争うこの時代の必然なのかもしれない。(※15)。
ビートボックスを武器にしながらジャンルを自由に横断し、融合させて新たな価値を生み出すプレイヤーは、Daichiと前後してほかにも登場した。
たとえばHIKAKIN(ヒカキン、※16)である。かれもまたハモネプにきっかけとしビートボックスを開始し、AFRAに大きな影響を受けた人物である。かつては「レッツアカペラ」というサイトに演奏をアップロードし、国内の奏者と交流をしながら技術を磨いた。
(※17)。
その後レッツアカペラを通してYouTubeの存在を知り、映像投稿を始める。当初は技術を押し出した硬派な演奏が多かったが、のちにポップな演奏も取り入れはじめるようになった。
そして2010年6月に投稿した「Super Mario Beatbox」によって火がつく。米国最大の放送局CBSのトップニュースで取り上げられ、当時としては驚異的な1週間で100万という伸び幅で再生回数を重ねた。2020年11月現在累計再生数は2018年10月現在、5050万回を超えている。
あるインタビューでHIKAKINは、「他のアーティストにはない自身のビートボックスの特徴は?」という質問に対し、下記のように語っている。
最初はビートボックス=ヒップホップと思っていました。AFRAさんやRahzelをマネしてると完全にヒップホップになってしまいますからね。上京してクラブでパフォーマンスをしていくうちに、日本人にも聞きやすい音源の方が受け入れやすいんじゃないかなと思い、スーパーマリオブラザーズやAKB48といった、お茶の間で流れるような誰もが口ずさめる音を取り入れるようになりました。
―WWD Japan「ヒカキンがファッション界に興味津々!?トップユーチューバーが語る今後の展開」(https://www.wwdjapan.com/10243)
この発想はまさに「ジャンルの横断」そのものであり、かれのアイデンティティの発露でもある。
その後も、ビートボックスを随所に散りばめた商品紹介やゲーム実況など、音楽という枠組みすら飛び越えてさまざまな嗜好をもつ視聴者を取り込み、日本を代表するYouTuber(ユーチューバー)としてその存在を確固としていくこととなる(なお、HIKAKINはユーチューバとして初めての確定申告の際、職業欄に「広告仲介業」と記しており、ジャンルをつなぎ合わせようという態度を端的に示している)。
ビートボックスを基礎としたジャンル横断を語る上で欠かせないのが、すらぷるためである。アニメ映画「千と千尋の神隠し」に登場するキャラクター・カオナシのセリフをビートボックスに取り入れる試みのほか、オリジナルビデオアニメ「撲殺天使ドクロちゃん」のテーマ曲のビートボックス化など、これまでにないアプローチを続けてきた。きわめて硬質な音色と重低音を駆使した高速ビートの技術によって、それらの試みには高いアート性が宿っている。
かれもYouTubeを主戦場のひとつと位置付け、日本において最初期(2009年)に「ビートボックス講座」を発信した人物である。
すらぷるためはその後も進化を続け、現在はジャンルが相互横断している現在の状況を、さらにメタ(上位)な視点から俯瞰するかのような演奏に挑戦している。そのひとつが「ANATANOBAIPO」という作品だ。
かれはビートボックスやボイスパーカッションを包括する「ボイパ」という概念にたいして、一定数「バイポ」と言い間違えてしまうひとがいる状況を俯瞰して分析。「『ボイパ』は人間の発声器官能力的に発話しにくいため、『バイポ』という言葉が存在し続ける」という持論を展開する。そしてさらに「バイポ」という言葉を分解し、ビートボックスに落とし込んで演奏するという、前衛的かつ挑戦的な演奏作品を生み出している。
僧侶の赤坂陽月は、般若心経をビートボックスとループステーションという機材によって演奏し、2020年5月に発表した「般若心経ビートボックスRemix」によって、世界からの注目を集めた。
赤坂もまた、AFRAに影響されてビートボックスを始めた人物だ。かつて海外での音楽経験などビートボックスで生計を立て、出家後もJ-WAVE INNOVATION WORLD FESTA、ニコニコ超会議などのイベント出演のほか、108日間のライブ配信など積極的な活動をしている。
「ビートボックス」と「お経」という、相容れることのなさそうなふたつをなぜ融合しようと思ったのか。インタビューを引用する。
「日本では、仏教といえばお葬式だし、お経はそんなに良くないイメージ、悲しいイメージが持たれていると思うんです」と赤坂。しかし彼にとって仏教は、苦しむことなく平穏に暮らすための教えであり、お経や仏典は、ひとびとの心を癒してくれるものだという。
「音楽への愛と信仰とを融合でき、さらにこの活動が世界中のひとびとへと届いている。それは本当にありがたいことだと思っています」
―お坊さんヒューマンビートボクサー、赤坂陽月|Vice
https://www.vice.com/ja/article/k7q3q3/beatbox-zen-buddhist-monk-japanese-youtube
古来から受け継がれてきた文化を、ビートボックスによって再解釈を施し、世界へと発信する。その試みは、ボイパが持つ可能性の深さを示してくれている。
さて、3章にわたって描いてきた「ボイパの歴史」は、執筆現在(2020年11月)に限りなく近づいてきた。そろそろいったんの幕を下ろさなければならない。
日本には昔から、非言語音による直接的模倣をエンターテインメント化させる文化があった。古くは明治期の落語家・江戸屋猫八、昭和期の声帯模写芸人・桜井長一郎など、特殊な職業による「専売特許」のようなわざであった。そこから脱し、多くのプレイヤーを獲得していくための契機として、以下のような出来事があったと整理できる。
ひとつは、音楽性の獲得である。かつてものまね芸人だったMr.no1seは、のちにボイパと呼ばれる音楽性を帯びた技術を生み出した。楽曲になることによって、技術はCDという媒体に記録され、多くのリスナーへと届き、数多のプレイヤーに練習の機会を与えた。
ふたつめはハモネプの放送だ。ハモネプの物語が生み出した影響の偉大さは、ここで繰り返すまでもないだろう。
そしてみっつめが、ハモネプブームとほぼ同時期に、地球の裏側のストリートで初めての日本人ビートボクサーが生まれたという事実である(※18)。
ハモネプを背景としたボイスパーカッションと、ヒップホップを背景としたビートボックス。このふたつが別の文脈で誕生したからこそ、各々が独自のコミュニティを築き、技術と精神性を磨き上げることができた。
そして現在、ふたつの文化は相互に大きな影響を与え合うことによって、急速に技術が発展している。そして、既存の枠組みをゆうゆうと飛び越えていくスタープレイヤーの登場、さらに動画共有サイトやSNSの影響も相まって、ボイスパーカッションとビートボックスの両文化を融合した概念である「ボイパ」には、いままさに、空前といえる巨大な潮流が生まれている。
最後に、Shimo-Renの言葉をふたたび引用しよう。
「ビートボックスとアカペラをくっつける。ビートボックスを『音楽の場』で使える、ひとつの楽器として広めていきたい」
第1章「模倣芸からボイパへ」の冒頭で私は、「いかに聴衆をして、「ボイパの音楽性」に目を向けさせるか。そのための試行錯誤こそ、これまでボイパが歩んできた歴史そのものではないか」という推測を展開した。
私はいまあらためて、この推測が正しかったことを実感している。
本論は敬称略。ヒューマンビートボックスは固有名詞以外「ビートボックス」と表現する。アカペラの文脈で表現される技術を「ボイスパーカッション」とし、ビートボックスとボイスパーカッションの両者を包括する概念を「ボイパ」とする。
※1…AFRA・・・1996年にN.Y.セントラルパークで見たThe RootsのビートボクサーRahzelのパフォーマンスに衝撃を受け独学でビートボックスを始める。高校卒業後N.Y.へ単身渡米、映画「Scratch」出演や、唯一の日本人として出演したビートボックス・ドキュメンタリー映画「Breath Control」などにも出演。AFRA公式ページ(http://afra.jp/)より引用。
※2…河本洋一・・・札幌国際大学短期大学部教授。ヒューマンビートボックスやボイスパーカッションなどの音楽表現、音楽教育、指揮などを専門。ビートボックス関連論文に「オノマトペを用いた歌唱指導の意義に関する一考察」「音楽表現の新たな素材としての模倣音の探究〜非言語音による直接的模倣音のための発音器官の使い方〜」などがある。ウェブサイト:https://www.humanbeatboxlab.jp
※3…Rahzel(ラゼール)・・・ヒップホップグループの「ザ・ルーツ」The Rootsの元メンバー。重厚なドラム音を基礎とし、高度なスクラッチ、サウンドエフェクトの再現性から「ゴットファザーオブノイズ」と称され、さまざまなビートボクサーに多大な影響を与えた。
※4…AI・・・ロサンゼルス出身のシンガーソングライター。シングル「Cry, just Cry」でデビュー。2005年シングル「Story」でヒットしNHK紅白歌合戦出場。AFRAとはWATCH OUT! feat.AFRA+TUCKER(2004)「Beat it feat.AI」(2009)で共演した。
※5…Mummy-D・・・ヒップホップ・グループ「ライムスター」のラッパー、サウンドプロデューサーであり、またグループのトータルディレクションを担う司令塔。 1989年、大学在学中に宇多丸と出会いグループを結成。活動初期の日本にはまだ、ヒップホップ文化やラップが定着しておらず、日本語ラップのやり方、日本人がどのような内容のラップをすれば良いのかなど、宇多丸と試行錯誤を重ねて曲を作り続け、精力的なライブ活動によって道を開き、今日に至るまでの日本のヒップホップシーンを開拓牽引してきた(ライムスターウェブサイトhttps://www.rhymester.jpより引用)
※6…AFRA「Heart Beat」(2009)に収録
※7…「日本におけるヒューマンビートボックスの概念形成〜世界的な潮流と日本人ビートボクサー“Afra”との関わりから〜」(2019)より引用
※8…TATSUYA(タツヤ)・・・20歳でBEATBOXを始め、2009年にはロンドン、ドイツ、そしてニューヨークのApolloTheaterに出演。ヒューマンビートボックス日本一決定戦 JapanBeatboxChampionshipではソロ、 チームを合わせて日本で唯一の4年連続優勝。 2014年のLA CUPで日本人初の世界4位、2016年にはシンガポールで開催された国際大会にて日本人初の優勝を獲得。 ももいろクローバーZのコンサートやディズニー・オン・クラシックにスペシャルゲストとして出演。また日本のBEATBOXシーンを盛り上げたいという思いを持ち、 2010年6月に一般社団法人日本ヒューマンビートボックス協会を設立した。https://note.com/tatsuya_beatbox/n/naff6158e6583より一部引用。
※9…タウンニュース港南区・栄区版2019年12月19日号のインタビュー(https://www.townnews.co.jp/0112/2019/12/19/510875.html)より。2020年11月23日閲覧。
※10…長谷川町蔵・大和田俊之共著「文化系のためのヒップホップ入門」(2011、アルテスパブリッシング)より引用
※11…長谷川町蔵・・・1990年代末からライター活動を開始。映画、音楽、文学からゴシップまで、クロスオーバーなジャンルでハスリングし続けている。著書に「ハイスクールU.S.A アメリカ学園映画のすべて」(2006)。
※12…奥村政佳・・・ おっくん。筑波大学在学中、フジテレビ系「ハモネプ」に出演し、第2回大会優勝。その後、アカペラグループRAG FAIRのボイスパーカッションとしてデビューし、2002年NHK紅白歌合戦に出場。その後保育士、防災士としても活躍。
※13…Daichi(ダイチ)・・・10歳の頃から、独学でヒューマンビートボックスを始める。18歳の頃、自宅で撮った動画をYouTubeにアップしたところ、全世界から注目を浴びる。 2012年、ニューヨークにある名門ライブハウス「アポロシアター」が主催する大会・アマチュアナイトにて、日本人ミュージシャン初の年間3位入賞を果たす。 Boyz II Men Japan Tourのオープニングアクト、「SMAP×SMAP」でのSMAPとのコラボや、YouTubeにて発表した“口だけであまちゃんOPテーマ”で、話題を呼んでいる。ワタナベエンターテインメントウェブサイトより一部引用https://www.watanabepro.co.jp/mypage/50000016/
※15…これは日本のみならず、世界においても同様で、ボイスパーカッションとビートボックスの垣根は急速に取り払われている状況である。その好例が、最も成功しているアカペラグループのひとつ「ペンタトニックス」であろう。
※16…HIKAKIN(ヒカキン)・・・高校生の頃にYouTubeを始め、これまでにエアロスミスやアリアナ・グランデなどのアーティストとビートボックスによる共演を果たした。ビートボックス以外にも商品紹介や色んなことにチャレンジする「HikakinTV」、ゲーム実況の「Hikakin Games」、「HikakinBlog」の4つのチャンネル運営など多彩にこなすマルチクリエイター。UUUMウェブサイトよりhttps://uuum.jp/creator/hikakin
※17…【対談】HIKAKIN & SEIKIN が語る、YouTubeへの想い。|tuneCORE JAPAN(https://www.tunecore.co.jp/news/93)
※18…本文にうまく入れることができなかったが、「伝承の精神」もボイパ普及における大切な要素だったといえる。Mr.no1seはウェブサイトで積極的に技術を発信した。ボイパのパイオニアであるKAZZは「ボイパ道場」を主催している。奥村は「ハモネプスタートブック」で演奏方法をレクチャーし、同時期に発売された「ボイパ本」(渡辺悠著)は伝説の教則本としてプレイヤーの記憶に残り続けている。すらぷるためやDaichiによってYouTube上での講座が展開され、ビートボクサーのZU-nAは日本初のビートボックス専門教室を開講。ビートボクサーを夢見る多くの少年少女に惜しみなく技術を伝えている。
参考
・「日本におけるヒューマンビートボックスの概念形成〜世界的な潮流と日本人ビートボクサー“Afra”との関わりから〜」(2019)
・長谷川町蔵・大和田俊之共著「文化系のためのヒップホップ入門」(2011、アルテスパブリッシング)
・ジェフ・チャン著、押野素子翻訳「ヒップホップ・ジェネレーション 「スタイル」で世界を変えた若者たちの物語」(2007、リットーミュージック)
・HIKAKIN著「僕の仕事はYouTube」(2013、主婦と生活社)
・JAPAN BEATBOX CHAMPIONSHIP 2019 [DVD]
・ヒューマンビートボックスという文化 | TATSUYA | TEDxNihonbashi(https://www.youtube.com/watch?v=8VYznNgC-Eo)
・タウンニュース港南区・栄区版2019年12月19日号(https://www.townnews.co.jp/0112/2019/12/19/510875.html)
・tuneCORE JAPAN【対談】HIKAKIN & SEIKIN が語る、YouTubeへの想い。(https://www.tunecore.co.jp/news/93)
・上越タウンジャーナル—ハモネプに出たHIKAKINさんは妙高市出身(https://www.joetsutj.com/articles/51734603)
・KAI-YOU.net「Daichi×AFRA 特別対談 ヒューマンビートボックスの未来」(http://kai-you.net/article/1138)
・一般社団法人日本ヒューマンビートボックス協会ウェブサイト(https://www.japanbeatbox.com)
・WWD Japan「ヒカキンがファッション界に興味津々!?トップユーチューバーが語る今後の展開」(https://www.wwdjapan.com/10243)
・Vice お坊さんヒューマンビートボクサー、赤坂陽月(https://www.vice.com/ja/article/k7q3q3/beatbox-zen-buddhist-monk-japanese-youtube)